理解とは何か
『りんご』がりんごである事実を作るのはりんごの存在ではなく、見た人の脳である。-と言ったのはどこぞの大哲学者だか覚えていないが、社会生活を送る上で、共通理解と思われていた事柄が結局は各々の思い込みをの上での理解であった、という事はほとんどの場合で起きる。
例えば『りんご』というプロダクトを作ろうと企画した時に、企画者と生産者、配給者、営業、プロモーターの見ているりんごはそれぞれ違う。
それぞれの『りんご』をイメージして案件を進めていくと最後の最後でりんごを構成するもののイメージが重なり合わず、りんごもどきでもない、『何物でもないモノ』が出来てしまい、そのプロダクトは産声を上げることなく死産に至ることも多々ある。
これは多かれ少なかれどこでも発生する。待ち合わせや共同生活で生じるパーソナルスペース問題など。ただ、これらは通常教育でコモンセンス(常識)と言う名の括りをインストールされているから調整はさほど難しくない。
常識から外れる新規事業をするからこそ気をつけたい認知及び理解の違い。常識のインストールから外れる分野だからこそ、個別にキチンと理解のすり合わせをしないと同じ目的の違うものを見ている可能性がある事を常に考慮に入れないといけないな、と思う今日この頃でござった。
他人は他人-共感力やミラーニューロンなど共通理解のためのツールが備わってても、全く違う考え方とやり方と理解を持っているからこそ、誤解の危険を孕みつつもそこがまた新たなブレインストームの元となるデンジャラスでイノベーティブな他人の存在を楽しみながら日々リバ邸でねむりこける住人Eでありましたのさ。(ペリスコープ絶賛配信中)
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